板東俘虜収容所の「ドイツさん」と板東の人々の信頼と友情のものがたり

鳴門市ドイツ館

徳島県鳴門市に伝わる「ドイツさん」のものがたりをご存知ですか?

ドイツさんとは、第一次世界大戦のおり、捕虜として日本に収容されたドイツ兵のこと。

当時、収容所があった徳島県鳴門市板東町(現在の大麻町)の人々が、親しみを込めてドイツ兵捕虜の人々をそう呼んでいたのです。

板東町の人たちは、いったいなぜ、ドイツ兵捕虜の人々に親しみをもっていたのでしょうか?

今回は、そんな「ドイツさん」と板東町の人々とのきずなや、ドイツさんが日本に残してくれたもの、現在も続く鳴門市とドイツの交流などをご紹介します。

捕虜として日本に来たドイツさんの暮らし

ドイツさんは、なぜ、日本へ来たのでしょうか。

まずは、その背景から簡単にご説明します。

ドイツさんが日本に来た理由とは?

【1914年8月】
第一次世界大戦で、日英同盟により日本はドイツに宣戦布告。ドイツの植民地であった中国の青島(チンタオ)に約5万人の日本兵を送る。

【1914年11月】
ヨーロッパでの戦いに戦力を集中させるため、青島(チンタオ)では約5,000人のみで防衛していたドイツ軍が降伏。約4,700人のドイツ兵が捕虜として日本の12か所の収容所に送られる。

【1917年4月】
収容所は最終的に6か所にまとめられ、板東俘虜収容所※1では約1,000人のドイツ兵捕虜を受け入れる。捕虜たちは、ここで1920年1月までの約2年10か月を過ごす。
※1 俘虜(ふりょ)と捕虜は同じ意味。大正時代の陸軍文書では「俘虜」が使われている

1917年というと、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)の真っ最中です。

ただでさえ、悲惨な(と思われる)収容所での捕虜生活。

日本国内が何かと不安定な中、約1,000人のドイツさんたちは、板東俘虜収容所で、どのような生活を送ったのでしょうか。

ドイツさんの人権を守った松江所長

板東俘虜収容所の松江豊寿(まつえとよひさ)所長は、送られてきたドイツ兵捕虜たちを虐げることなく、彼らの人権を尊重しました。

松江所長は、会津藩出身であることから、明治維新では「賊藩」として虐げられた過去があり、そのことが「敗者」への深い配慮へとつながったのではないかと言われています。

実際、「捕虜に甘い」という中央からの警告にも、「彼らも祖国のために戦い、刀折れ矢尽きて捕虜となったのだから」と、従わなかったそうですよ。

松江所長のこの姿勢に共鳴した、高木繁大尉やその他の将兵、通訳などの協力もあり、「捕虜に対して人道的な板東俘虜収容所」が実現しました。

旅行?合宿?ドイツさんの収容所での暮らし

松江所長をはじめとする収容所管理者たちの計らいにより、ドイツさんたちは、かなり自由に過ごしていたようです。

自発的な活動も認められていたため、収容所内では、料理、音楽、スポーツなどが活発におこなわれ、ドイツさんが営むレストランや楽器修理店、理髪店などもあったそうですよ!

板東俘虜収容所ドイツさん模型

板東俘虜収容所ドイツさん模型

収容所外でも、板東町の人々に、ハム・チーズの作り方やパンの焼き方を指導したり、美術工芸品の展覧会や音楽会を開くなど、地域との交流もさかんにおこなわれました。

また、カメラを使って収容所内を撮影したり、時には収容所の外に出て取材をしたりして、情報誌なども出版されていました。

それらは、解放後も「板東の思い出」として、元ドイツさんによって大切に保管されていたそうです。

ドイツさんの生活を知れば知るほど、「あれ、捕虜ってなんだっけ?」という感覚になってきますよね。

ドイツさんの暮らしぶりは、映画『バルトの楽園(がくえん)』でくわしく見ることができます。

見るとさらに、「収容所ってなんだっけ?」と、なるかもしれませんよ(笑)

◆ 映画『バルトの楽園(がくえん)』

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ドイツさんが日本に残してくれたもの

1919年11月、第一次世界大戦は、ドイツの降伏により終戦を迎え、ドイツさんは、順次、故郷へ帰ることになりました。

ここでは、ドイツさんが日本を離れるまでに、日本に残してくれたものについて、いくつかご紹介します。

アジアではじめて演奏された「第九」

ベートーヴェンの「第九(交響曲第9番)」をご存知ですか?

日本では、大晦日に歌われるあの曲です。

 

実は、板東俘虜収容所は、1918年6月1日、アジアではじめて「第九」の全楽章が演奏された場所なんですよ!

演奏はもちろんドイツさん。

混声の合唱部分を男性の声のみで編曲しなおすなど、苦労もあったようですが、収容所の中でも外でも、解放されて祖国に帰る日まで、何度も何度も演奏されたそうですよ。

第九以外にも、ドイツさんによる音楽会で、いろんな曲が演奏されたので、板東の人たちの中には、西洋音楽に興味を持つ人も出てきたそうです。

『バルトの楽園』では、ドイツさんが板東の子どもたちにバイオリンを教えるシーンもありましたね。

ドイツさんは、西洋音楽や楽器についても、知識や技術を残してくれました。

日本にはなかった建築法「アーチ工法」

ドイツさんは、板東町を去るにあたり、板東町で過ごした記念にと、ドイツの技術を使って「ドイツ橋」と「めがね橋」を造りました。

鳴門市坂東俘虜収容所ドイツ橋

鳴門市坂東俘虜収容所めがね橋

モルタルを使わずにアーチを造るこの工法は、当時の日本にはなかったそうですよ。

ドイツさんが、どんな思いで石を積んだのかを考えると、感慨い深いですね。

自分たちがここで過ごした記録として、または、収容所で命を落とした戦友を思って、松江所長や板東の人々への感謝を込めて……。

ドイツ橋は2004年に徳島県の文化財史跡に指定されました。

どちらの橋も、大麻比古神社の境内で、今も大切に保存されています。

日本に根づいたドイツの味

解放後、ドイツさんの中には故郷に帰らず、日本に残る人もいました。

板東ではなく、似島俘虜収容所(広島県)のドイツさんですが、ソーセージの製造に携わったヘルマン・ヴォルシュケさん、バームクーヘンで有名になったカール・ユーハイムさんが、よく知られています。

カール・ユーハイムさんは、お名前から、洋菓子店「ユーハイム」の創始者だと分かりますね。

では、ヘルマン・ヴォルシュケさんは?

現在の「日本ハムファクトリー株式会社」です!

どちらも日本人の大好きな味。

これからも末永く、日本人に愛され続けるでしょう!

今も続く鳴門市とドイツの交流

1,000人ものドイツさんと板東町の人々で賑わった板東俘虜収容所。

現在は、どうなっているのでしょうか?

板東俘虜収容所跡は「ドイツ村公園」に

1920年4月に閉鎖された板東俘虜収容所は、兵舎と、収容所で亡くなったドイツさん(11名)の慰霊碑だけが残されました。

第二次世界大戦のあと、兵舎は、海外から引きあげてきた日本人の仮住まいとして利用されましたが、1978年までには、すべての兵舎が解体されました。

その後、板東俘虜収容所跡は、給水塔跡や慰霊塔がある東側1/3が国指定史跡となり、現在は「ドイツ村公園」として保存されています。

板東俘虜収容所跡ドイツ村公園

板東俘虜収容所跡ドイツ村公園

板東俘虜収容所跡ドイツ村公園

慰霊碑から再びつながる両国の絆

少し時間をさかのぼりますが、第二次世界大戦後、高橋春枝さんという女性が、草に埋もれているドイツさんの慰霊碑を発見しました。

その後、春枝さんは定期的に清掃や献花を続け、1960年10月、その活動が新聞に掲載されました。

そのことをきっかけに、当時のドイツ大使が慰霊碑を訪れ、40年の時を経て、鳴門市とドイツの交流が再開したのです。

その後、元ドイツさんから、感謝の手紙や募金、資料の提供が相次ぎ、1972年には、それらを貯蔵するための旧ドイツ館が建設されました。

現在の鳴門市ドイツ館は2代目の建物ですが、各地から集まったドイツさんの貴重な資料※2や、当時の生活がうかがえる模型などが展示されています。
※2 鳴門市ドイツ館所蔵品目録 

また、鳴門市ドイツ館の前にある道の駅「第九の里」の建物は、板東俘虜収容所の兵舎をそのまま使用しています※3
※3 道の駅 第九の里/鳴門市

道の駅第九の里兵舎

鳴門市ドイツ館に行かれる際は、ぜひ、そちらにも足を運び、当時の暮らしの雰囲気を味わってみてくださいね。

ドイツのリューネブルク市と姉妹都市に

1974年4月、鳴門市とドイツのリューネブルク市の間で、姉妹都市盟約が結ばれました。

それ以降、両都市では、ほぼ1年おきに、市民を中心とした親善使節団が行き来するなど、交流は活発に続いています。

また、2019年には元ドイツさんの孫にあたる方から、慰霊碑の墓守を務めてくれた高橋家の人々に、チューリップの球根が贈られたというニュース※4も。
※4 友好のチューリップ 鳴門で満開/徳島新聞

その数は、なんと1,000個!

残念ながら、高橋春枝さんのあとをついで墓守を務めた長男の敏夫さんは、2018年10月に他界されました。

現在は、地元のボランティアの人々によって墓守は続けられていますが、この年は、たくさん咲いたチューリップを慰霊碑に飾り、その前で市民らが「第九」を合唱したそうですよ。

合唱に参加した小学3年生の女の子は、

「天国のドイツさんやその家族に届くよう、心を込めて歌った。日本とドイツが仲良くできたらうれしい」

と話していたそうです。

天国のドイツさんにはもちろん、春枝さん、敏夫さん親子にも、きっと届いてますね。

これからも、鳴門市とドイツ・リューネブルク市の、温かい交流が続きますように!

まとめ

いかがでしたか?

鳴門市に残る、奇跡的なエピソードをご紹介しました。

松江所長が全く違う気質の人だったら、板東町の人々は、手錠や足かせをした1,000人のドイツ兵捕虜に、おびえて暮らさなければならなかったかもしれません。

また、ドイツさんの中から1人でも脱走兵が出れば、人道的な運営や板東の人との交流はなかったのではないでしょうか。

板東俘虜収容所での約3年間は、1,000人のドイツさん、収容所の管理者たち、そして板東町の人々の、信頼と友情のうえに成り立っていた、まさに奇跡のものがたりですね。

鳴門市ドイツ館では、模型やシアターで、当時のようすをわかりやすく展示しているので、ご興味をもたれた方は、ぜひ、足を運んでみてくださいね!

 

【鳴門市ドイツ館データ】

◆鳴門市ドイツ館
《住所》
〒779-0225
鳴門市大麻町桧字東山田55-2
《ホームページ》
http://doitsukan.com/
《アクセスページ》
http://doitsukan.com/access.html

 

【出展】

◆「なると第九」ブランド化推進支援サイト/鳴門市役所 文化交流推進課

◆ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所/(公財)広島市文化財団 広島市似島臨海少年自然の家