ほっこりと俳句を詠みながらの旅日記だとばかり思っていた、松尾芭蕉の『おくのほそ道』。
なんと、その旅には、別の目的があったのではないかという噂があるのです!
その噂とは、「芭蕉は、俳句旅行のふりをして東北をめぐり、幕府との関係が緊迫していた伊達藩の内情を探っていたのではないか」という、まさかのスパイ疑惑。
さらに、約150日間におよぶ『おくのほそ道』の旅で、46才の芭蕉が約2400kmという距離を歩いたことから、「芭蕉は忍者だったのでは?」という疑惑まであるんです!
松尾芭蕉が「忍者」で「スパイ」だなんて。
本当なら、めちゃくちゃかっこよくないですか!?
疑われる要素を見ていくと、あれも、これも、ホントだ、あやしい!
今回は、『おくのほそ道』の行程などを見ながら、松尾芭蕉の忍者説、スパイ説を検証します。
俳句を詠みつつ、しれっと情報収集をする、クールな芭蕉翁を想像しながら進めていきましょう!
目次
松尾芭蕉が忍者と疑われる理由とは?
忍者といえば、屋根にとびあがったり、床の下にひそんだりする、黒い服のあの人たちですよね。
わたしがイメージする松尾芭蕉とは、少しもかぶらないのですが、みなさんはいかがでしょうか。
まずは、芭蕉のどのあたりが忍者を思わせるのか、その理由からみていきましょう。
芭蕉は忍者の里「伊賀」の出身
芭蕉は1644年、三重県伊賀市で生まれました。
母方は百地三太夫※の家系といわれているので、芭蕉も忍者の子孫、ということでしょうか。
※ 戦国時代の忍者で伊賀流忍術の創始者
また、芭蕉は19才の頃、藤堂藩の藤堂良忠に仕えますが、その父良清は、服部半蔵※のいとこにあたるそうです。
※ 「服部半蔵」は通称。一代目のみ忍者、二代目以降は忍者ではなかったとの説も
「松尾芭蕉は、実は服部半蔵だった!」という説まであるようですが、さすがに、それはちょっとムリがありそうですね。
忍者の歴史が色濃くのこる伊賀の里で、芭蕉はどのように育ったのでしょうか。
芭蕉の幼少期は、謎に包まれているだけに、「少しくらい忍術の訓練をしていたのでは!?」なんて、ちょっと期待してしまうのです!
忍者は俳諧師や僧侶などの姿で活動する
忍術書には、「俳諧、茶の湯で名をあげよ」という教えがあるそうです。
その道で有名になれば、堂々と諸国をめぐり、情報収集ができる、ということですね。
実際に、忍者は、俳諧師や僧侶、山伏、商人などの姿で活動することが多かったそうですよ。
この条件にも、芭蕉はぴったりですね。
ただし、芭蕉の句には、「古池や……」の句ように、俳句を知らなくてもゆる~く楽しめるような、魅力的なものがたくさんあります。
忍者であっても、なくても、芭蕉が心から俳諧を愛していたことに、間違いはありません!
1日でフルマラソンの距離を歩く健脚
『おくのほそ道』の行程は約150日間。
この旅で、芭蕉は約2400kmを歩いたといわれています。
旅の途中の長期滞在などを差し引くと、なんと、一日で約40~50kmを歩く日もあったとか。
忍術には疲れにくい早歩きの術があり、わたしも一度だけ見たことがありますが、少し前のめりの競歩、という感じでしょうか。
手と足を交互ではなく「右手・右足」を一緒にだすような歩き方だったような気がします。
あの歩き方なら、フルマラソンレベルの距離でも歩けるかもしれませんが、足よりわらじがどうにかなるんじゃないかと心配です。
ここは、芭蕉が忍者かもしれないというわくわく感よりも、できれば、かごや馬、舟などを上手に使っていて欲しい、足の皮がめくれたりしませんように、と、今更ながら願ってしまいました。
【芭蕉・忍者疑惑の結論!】
伊賀の生まれで、俳諧師。それだけで「芭蕉は忍者だった!」とは言い切れませんよね。
ただし、『おくのほそ道』の旅での健脚ぶりを考えると、なんらかの訓練の経験はあるのかもしれません。
っということで、わたしの結論は、「忍者の心得や訓練の経験はあるものの、忍者としては活動していなかった」、です!
みなさんは、あの健脚を、どう判断しますか?
ほんのりスパイの香りがする『おくのほそ道』の旅
ここでは、『おくのほそ道』の旅が、スパイ旅行だと疑われる主な理由を3つ、ご紹介します。
旅のコースは伊達藩の重要拠点
1688年、幕府は有力な外様藩「伊達藩」の力をそぐために、日光東照宮の修繕を命じました。
その修繕には3年の月日と、莫大な費用がかかり、伊達藩は約500億円の借金を抱えたとも伝えられています。
そのため、藩士の給料は3割削減され、一歩間違えれば謀反も起きかねない緊迫した状態でした。
1689年、そんな情勢の中、芭蕉は弟子の曽良をともなって、伊達藩領である東北をぐるりとまわって北陸へ向かう俳句旅行に出かけます。
しかも、そのコースには、伊達藩の貿易の拠点となる石巻港など、伊達藩の要所がいくつか含まれていたのです。
さらに、「道に迷った」といってたどり着いた場所は、県境にある小黒山。
小黒山は、仙台藩の大事な鉱脈で、「金」の採掘がおこなわれていました。
落盤で亡くなった人が大変多く、死人山とも呼ばれていたおどろおどろしい山に、芭蕉はどうして近づいたのでしょうか。
その一説として、幕府は1695年の「貨幣改鋳※」までに、金の事情を把握したかったのではないか、といわれています。
※ 市場に流通している貨幣を回収してそれらを溶かし、新たな貨幣を鋳造して改めて市場に流通させること
そのための情報収集を、芭蕉が担わされたのではないか、ということです。
確かに、個人旅行としては、なかなかスリルのある旅のコースですよね。
これは、スパイだと疑われることにも納得です!
同伴者曽良は大名や旗本の「監視役」
『おくのほそ道』の旅に同行した弟子の河合曽良(1649~1710年)。
1685年から深川にある芭蕉庵の近くに住み、1687年には芭蕉の鹿島神宮詣にも同行しました。
『おくのほそ道』の旅では、芭蕉の身の回りのお世話をしていたのかと思ってしましたが、実は、本当のスパイは曽良だったのではないか、という説もあるのです!
芭蕉の死後、曽良は「巡見使」の随行員となっています。
巡見使とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の「監視と情勢調査」のために派遣した幕府の役人のこと。
全国の武士の中でも、巡見使になれるのは、ほんの一握りだそうですよ。
忍者だと疑われる芭蕉と、情報収集力の高い曽良。
この二人の旅が、ただ俳句を詠むだけの旅行だと考えるほうがむずかしくなってきました。
旅の資金調達のナゾ
芭蕉と曽良の二人が約150日間旅をするための旅費は、どこからでたのでしょうか。
一説では、ゆうに100万円を超えていたのではないかといわれています。
ここで、出てくるのが幕府の存在です。
芭蕉は、幕府にスパイとして雇われ、旅の資金を得ていたのではないかといわれているのです。
ただし、芭蕉の弟子たちから、旅の資金が集まってきたとも考えられます。
江戸で宗匠※をしていたころ、芭蕉の弟子には、武士や医者の息子、魚問屋の主人などがいました。
※ 文芸・技芸に熟達し人に教えることのできる人。特に、和歌、連歌、俳諧、作動などの先生
芭蕉の弟子たちは、芭蕉への援助を惜しまなかったといわれています。
また、旅先で芭蕉の門人や知人を訪ねたおり、食べ物や多額の金子の差し入れがあったとの記録もあります。
たくさんの弟子、門下生をもち、多くの人に慕われた芭蕉。
幕府からお金で雇われなくても、旅をするのに困らないくらいのお金は、自然と集まってきたのではないでしょうか。
【芭蕉・スパイ疑惑の結論!】
古くから、連歌師や商人など、全国を旅するなりわいの人が、雇われて情報を収集することはよくあったそうですよ。
そう考えると、俳諧師である芭蕉が、旅をしながら情報収集をしてもおかしくはないと思いますが、芭蕉の場合、江戸幕府というより、若い頃からお世話になっている、藤堂藩の役に立ちたかったのではないでしょうか。
わたしの結論は、「芭蕉と曽良は、藤堂藩からの依頼で伊達藩の情報を集めるための俳句旅行に出た、または、もともと計画のあった俳句旅行で、伊達藩の情報収集をすることを了承した」、ということです!
まとめ
いかがでしたか?
松尾芭蕉の忍者疑惑、スパイ疑惑は、いろんな情報をすりあわせて想像を巡らせると、とてもおもしろいですよね!
この記事の参考にした『NHK英雄たちの選択 「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」』という番組でも、出演している、俳人、国文学者、社会学者、歴史学者たちが、こぞって、「芭蕉がスパイだったら、こんなにおもしろいことはない!」というはなしで盛り上がっていました。
学者の方々からすれば、今さら、芭蕉がスパイだったと聞いても、「おもしろい」だけで、芭蕉や『おくのほそ道』をおとしめることにはならないんですね。
どちらに転んでも、芭蕉へのリスペクトは変わらない。
亡くなって300年以上がたっても、これだけ多くの人にゆるぎなく愛される芭蕉は、とてつもなく魅力あふれる人物だったのだなぁと、改めて感じました。
【出典】
◆英雄たちの選択「“奥の細道”への道~松尾芭蕉 五・七・五の革命~」
◆『ビギナーズクラシック日本の古典 おくのほそ道(全)』(2001年 松尾芭蕉 角川書店編角川ソフィア文庫)
◆『令和元年度第七十三回芭蕉祭特別展図録 奥の細道』(芭蕉翁記念館)
◆『芭蕉翁年譜』(芭蕉翁記念館)
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