人里離れた雪深い地で、重罪人が罪と向き合う。
どんな罰を受けるの?どんな生活をするんだろう?と、興味本位で「博物館 網走監獄」を訪れました。
しかし、そこで見たものは、たくさんの「重罪人ではない」囚徒が、「罪と向き合うひまもなく」亡くなっていった、という記録でした。
今回は、網走監獄ができた経緯と、囚徒たちの悲惨な運命をご紹介します。
目次
網走監獄ができた背景
網走監獄の設置には、当時の日本の情勢が大きく関係していました。
時は明治のはじめ、近代日本の節目にあたる激動の時代です。
日本中にあふれかえる国事犯
幕藩体制から天皇制に変わった明治のはじめ、日本では、政府が進める政治改革への不満などから、内乱や反乱が相次ぎ、国事犯※1の逮捕者が急増しました。
※1 内乱罪など、国の政治的秩序を侵害する犯罪
増え続けた逮捕者は、明治18年には過去最高の約8万9,000人に。
その中には、思想の違いだけで国事犯として逮捕された士族も多くいたそうです。
明治政府は「監獄則改正」をおこない、重罪人、国事犯、懲役刑12年以上の囚徒を、北海道の集治監(刑務所)へ送りました。
Photo by kii watanabe
ロシア帝国による北海道侵略の脅威
同じころ、明治政府を悩ませていた問題がもう一つありました。
ロシア帝国による、南下政策です。
領土拡大のために忍び寄るロシア帝国から北海道を守るため、北海道の開拓は一刻を争う課題でした。
しかし、未開の地の開削※2などを民間に頼むと、膨大な費用がかかります。
※2 土地を切り開いて道路や運河を通すこと
当時、太政官大書記だった金子堅太郎は
「賃金の安い囚徒を使えば工事費はおさえられ、苦役で囚徒が死んだとしても監獄の出費が浮くのだから一石二鳥だ。」
と提言。
そこから、北海道に収監されている囚徒による過酷な北海道開拓がはじまりました。
網走監獄の誕生
Photo by kii watanabe
北海道には、樺戸集治監(明治14年・月形町)、空知集治監(明治15年・三笠市)、釧路集治監(明治18年・標茶町)の、3つの集治監(刑務所)が作られました。
明治20年には、3本の基幹道路の工事計画が発表され、それぞれの集治監の囚徒が、約3年をかけて、2本と半分の道路を完成させました。
残りの半分は網走~北見峠下の163km。
この道路を完成させるため、釧路集治監から1,200人以上の囚徒が、雪の中、徒歩で網走へ向かいました。
これが「釧路監獄所 網走囚徒外役所」、網走監獄のはじまりです。
史上最悪の囚人労働
網走へ移動した囚徒たちの労働は、「通常なら3年はかかる開削を約8か月で終わらせる」という、過酷な突貫工事でした。
多くの犠牲者をだした、その工事の全貌をお伝えします。
標茶町から網走までの大移動
明治23年3月、網走~北見峠(後の中央道路)の開削のため、釧路集治監(標茶町)から1,200人以上の囚徒が網走へ移動しました。
移動は、50人ほどの単位で、時期をずらしながらおこなわれました。
記録では、徒歩で大きな荷物を引きながら、国道391号線の雪の上を歩く囚徒たちの写真が残されています。
その距離は約98.8km。普通に歩くと、約20時間かかるといわれていますが、荷物を引きながら雪の上を歩くとなると、それ以上の時間がかかったことが予想されます。
網走に到着した囚徒は、まず木を切り小屋をたて、約1,200人を収容できる刑務所を作りました。
そして翌年4月から、囚人労働史上、もっとも悲惨といわれる工事がはじまったのです。
過酷極まる突貫工事
囚徒に課せられた労働は、手つかずの原生林に分け入り、網走~北見峠(約163km)に、幅6mの道路を作ることでした。
作業は、斧やもっこ※3を使った手作業で、逃亡防止のため、2人ずつ鎖で体をつないでおこなわれました。※3 縄や竹などを編んで作った土砂の運搬道具
163kmを8か月で終わらせるという北海道長官永山武四郎の難題に応えるため、分監長の有馬四郎助は、囚徒を220人ずつ4チームに分け「早く割り当てを終えたチームに次の工区の選択権を与える」として、チーム間で早さを競わせました。
労働時間は、夜明け前から深夜まで。夜はかがり火をたいて囚徒を働かせました。
211人の鎖塚
現場は野生動物の生息地。囚徒たちは、ヒグマやエゾオオカミにおびえながら作業をおこないました。
夏は、アブや蚊の大群にも悩まされたといいます。
睡眠は「動く監獄」と呼ばれる小さな小屋でとり、夜明け前には枕にしている長い丸太をガンガンと叩かれていっせいに起こされました。
Photo by kii watanabe
おそらく、そこでもアブや蚊にあい、十分に眠れなかったのではないでしょうか。
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また、現場が山深くなるにつれ食料が届きにくくなり、栄養失調やケガ人が多くでるようになりました。
重りや鎖を付けたままでの重労働に、栄養不足や寝不足が重なり、約1200人の囚徒のうち、900人以上が水腫病(全身がむくんで腫れ上がる病気)を発症しました。
作業は日に日に過酷さを増し、逃亡しようとしたり抵抗した囚徒はその場で斬殺され、見せしめとして、そのまま風雨にさらされました。
病気やケガで亡くなった囚徒は、道の傍らによけて土をかけ、彼らが付けていた鎖を目印としてその上に置き「鎖塚」と呼びました。
この工事で亡くなった囚徒は211名。
北海道の囚人労働の中で、最も悲惨な現場だったといわれています。
その後の囚徒たち
命がけで、または命と引きかえに、北海道の開拓を進めた網走の囚徒たち。
彼らはその後、どうなったのでしょうか。
囚徒外役所から農園監獄へ
Photo by kii watanabe
中央道路開削工事での悲劇をうけて、明治27年、帝国議会で百万梅治議員による「囚人は二重の刑罰をうけるべきか」という大演説がおこなわれ、囚人外役労働は廃止されました。
その後の囚人労働は、農耕や内役が中心となり、明治30年にいったん閉鎖された網走外役所は、明治36年に農園監獄として生まれ変わりました(網走監獄に改称)。
処遇がずいぶんと改善されたのでしょうか、明治42年、火事で施設が全焼した際には、1人の脱走者もでなかったそうです。
大正11年には農園設備特設刑務所に指定され、農業を受刑者教化に役立てる農園訓練制度を開始。
Photo by kii watanabe
4つの農場を使って開放的対処施設とし、生活態度が優良な囚徒をそちらに移して、農作物の手入れや収穫などを、自立的に管理させました。
Photo by kii watanabe
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網走刑務所の二見ヶ岡農場は、現在も「塀のない刑務所」として運営されています。
鎖塚の発掘と慰霊碑
昭和の中頃から、郷土史の研究者や住民を中心に、鎖塚の遺骨を発掘する作業が熱心にすすめられ、いくつもの慰霊碑やお墓が建てられました。
中央道路が通る北見市では、昭和43年、中澤廣氏(元端野町長)によって、鎖塚と命名した札をたてた地蔵尊も建立されました。
心ならずも、北海道の開拓に尽力してくれた囚徒たちの存在を忘れてはならないと、囚徒ゆかりの地域では「慰霊碑保存会」や「慰霊事業保存会」などが発足。
各地の慰霊碑やお墓では、今でも慰霊祭がおこなわれています。
博物館網走監獄
Photo by kii watanabe
現在、網走市にある「博物館網走監獄」には、昭和の終わりごろまで使われていた正門や舎房、浴場などが移築・展示されています。
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囚徒や看守のかなりリアルな蝋人形のおかげで、当時の様子がよくわかり、見応えがありますね。
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開削工事のころの資料は意外と少ないように感じますが、博物館の中の「監獄歴史館」の体験シアター「赫い囚徒の森」(7分)で見ることができます。
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映像の中では、看守が動けなくなった囚徒に対して、
「終わりさえすれば網走に帰れるんだから!しっかりするんだ、死ぬんじゃない!一緒に網走へ帰ろう……!」
と、呼びかけるシーンがありました。
北海道に送られた囚徒の中には、政府との思想の違いなど、今では罪に問われないような国事犯もいたので、看守と囚徒は、必ずしも敵対していなかったのかもしれません。
そんなことを考えれば考えるほど、看守と囚徒、どちらにとっても悲惨な時代だったのだと、このセリフがいっそう心に残りました。
まとめ
いかがでしたか?
網走監獄ができたのは、重罪人を人里から離すためでも、脱獄を防ぐためでも、じっくり罪と向き合う時間をつくるためでもなかったんですね。
北海道には、女性の囚徒が送られなかったことから、そもそも北海道開拓の労働力として、男性の囚徒が送られていた、といわれています。
わたしにとって、北海道はよく訪れる旅先のひとつです。
明治の時代、命と引きかえにこの地を拓いてくれた人たちがいることを、忘れないようにしたいと思いました。
【データ】
◆博物館 網走監獄
【出典】
◆『最大で最古』/博物館網走監獄
◆網走刑務所の誕生「強制労働」と「脱獄」の歴史
◆北海道月形町公式サイト 開拓の基盤を作った囚人道路
◆第5節 中央道路(囚人道路) 北見観光
◆端野町歴史民俗資料館:中央道路と鎖塚 北見市
◆囚人道路
◆監獄秘話 第3話 囚人が開いた土地
◆標茶町~網走 徒歩
◆月形樺戸博物館
【関連書籍】
新装版 赤い人 (講談社文庫) 文庫 – 2012/4/13
囚人たちの北海道開拓史
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