「今から48時間以降にイランの上空を飛ぶ飛行機は、すべて撃墜する」。
1985年、イラン・イラク戦争が緊迫する中、イラクのサダム・フセイン大統領は、世界にむけて、そう宣言しました。
世界各国から、自国民を帰国させる救援機がイランへ向かう中、日本政府は危険を理由に救援機を出さないと決定。
絶望のふちにいた日本人215名を、イランから救い出したのは、トルコ政府の救援機でした。
なぜ、トルコ政府は、日本人を救出したのでしょうか。
それには、1890年に和歌山県の串本沖でおきた、トルコ(当時のオスマン帝国)の軍艦エルトゥールル号の海難事故が関係していました。
今回は、エルトゥールル号の海難事故や、その後の日本・トルコ両国の深い友好関係についてご説明します。
また、それらの資料が残る「トルコ記念館」や、エルトゥールル号の海難事故を題材にした映画『海難1890』についてもご紹介します!
目次
エルトゥールル号の乗組員を救え!嵐の中の救出活動
1890年9月16日、トルコの軍艦エルトゥールル号は、和歌山県串本沖で嵐に巻き込まれて沈没。
500人以上の乗組員が犠牲となる、痛ましい海難事故となりました。
エルトゥールル号は、なぜ日本にいて、なぜ嵐の中を航海していたのでしょうか。
この事故の全容を見ていきましょう。
国賓として来日したトルコの親善使節団
19世紀末、欧米列強※1との「不平等条約」に苦しめられていたトルコは、同じ条約に苦しんでいる日本に、友好関係を結ぼうと持ちかけました。
※1 第二次世界大戦前の呼び方で、イギリス、フランス、オランダ、アメリカのこと
日本はこれに応え、1887年、小松宮彰仁親王がトルコを訪問。
その返礼として、軍艦エルトゥールル号が派遣され、1980年6月、横浜港に到着しました。
エルトゥールル号の親善使節団は、礼砲と万歳三唱で熱烈な歓迎を受け、団長のオスマン・パシャは明治天皇に拝謁。
一行は、その後3ヶ月間、国賓として東京に滞在しました。
無事に使命を果たした使節団は、1980年9月15日、イスタンブールに向けて出航。
日本側は、「9月は台風が発生するので、出航を見合わせては」とすすめましたが、当時、船内でコレラ患者がでていたこともあり、エルトゥールル号は、先を急ぐように出港しました。
翌日、イヤな予感は的中。
エルトゥールル号は、和歌山県沖、熊野灘で暴風雨に巻き込まれます。
そして、その夜、和歌山県串本町大島村付近で操縦不可能となり、岩礁に激突。
機関室に海水が入ったことにより水蒸気爆発をおこし、エルトゥールル号は沈没しました。
乗組員が助けを求めて次々と大島に上陸
エルトゥールル号の爆発音は、大島(当時の大島村)の人たちにも聞こえていたそうです。
はじめは何の音か分からなかったようですが、その音の正体はすぐに大島の人々に知れ渡ります。
エルトゥールル号から投げ出された乗組員は、大島の樫野崎灯台の光をたよりに、命からがら崖を登り、助けを求めて灯台の宿直室を訪れました。
嵐の夜、突然現れた血まみれの外国人に、当時の宿直者は、さぞかし驚いたのではないでしょうか。
あわてて応援を呼び、手当をはじめますが、ことばが通じません。
世界中の国旗が並んだ本を見せたところ、トルコの旗を指さしたことから、国賓として迎えていたエルトゥールル号の乗組員ではないか、ということがわかったようです。
同じ頃、現場近くの海岸にも、エルトゥールル号の乗組員が流れ着き、村民あげての大救出劇がはじまったのです。
あるものすべてを持ち寄った献身的な救助活動
救助の現場となった大島は、村が3つあるだけの小さな離島でした。
今でこそ、串本大橋が架かかり、便利に行き来ができますが、当時は巡航船すらなく、物資なども十分ではなかったようです。
それに加え、おりあしく台風続きで漁にも出られず、日々の食料にも困窮していました。
しかし、大島の人たちは、それぞれの家に蓄えてあった食料や、飼っていた鶏などを持ち寄って、遭難者の救護にあたりました。
主な手当ては、2つのお寺に分かれておこなわれ、ありったけのふとんや着物がそこへ集められたそうです。
嵐の海から、血まみれの外国人を次々と村へ運びあげ、大雨の中、ふとんや着物、食料を救護所へ集める。
想像を絶する作業ですが、村の人たちはきっと、驚いてるひまも、怖がっているひまもなかったのではないでしょうか。
また、生存者を救済する一方で、まだ海にいる遭難者の捜索もおこなわれました。
海岸は、200体以上の遺体や体の一部などが打ち上がる、すさまじい状況でした。
村の人たちは、その中から息のある人を探し出し、村へ運びました。
捜索は夜が明けてからも続きましたが、結果として、656人の乗組員のうち、助かったのは69名、遺体を引き上げることができたのは239名でした。
見つけることができなかった348名の乗組員は、今もエルトゥールル号とともに、串本の海に眠っています。
日本政府にも広がる救助の動き
エルトゥールル号の海難事故では、大島の人たちだけではなく、日本政府も救助活動をおこないました。
次は、大島村の村長の日記から、生存者をトルコに送り届けるまでの動きを見ていきましょう。
項目が多いので、ちょっとかけ足でお伝えします!
大島村村長の迅速な対応
当時、大島村の村長だった沖 周氏に、エルトゥールル号海難事故の知らせが入ったのは、事故の翌日、9/17の10時30分ごろでした。
沖村長は、すぐに和歌山県庁、海軍省に電報をうち、医師を手配。
さらに、台風をさけて大島港へ入港してた民間船「防長丸」に協力をあおぎ、9/18、生存者の士官2名を神戸に派遣しました。
9/19、事故を知った兵庫県の林知事は、宮内省に事故を報告。
宮内省は、海軍省の軍艦「八重山」「横須賀」と、日本赤十字社の医員を派遣することを決定しました。
ドイツの軍艦ウォルフ号も協力
9/20、事故を知った神戸ドイツ領事館は、軍艦ウォルフ号を大島に派遣しました。
ウォルフ号は、生存者を乗せて神戸へ移送することを快諾し、その日のうちに生存者を乗せ、神戸に向けて出航。
9/21の朝、ウォルフ号は神戸港に入港し、赤十字社医員、侍医局医員によって、生存者の治療がはじまりました。
同じく9/21、海軍省の軍艦八重山が大島に到着。
前日、高波のためにウォルフ号が断念した埋葬式をおこない、探索のためにウォルフ号に乗れなかった生存者2名と、回収された遺留品を乗せて、神戸に向けて出航しました。
軍艦比叡・金剛で生存者をトルコへ
9/26、日本政府は、軍艦「比叡」「金剛」で、生存者をトルコへ送り届けることを決定しました。
10/5、比叡・金剛は品川を出航。
12/27、イスタンブールに到着したものの、入港許可が得られず、当時のオスマン帝国ユケリ湾で、軍艦タリヤ号に、生存者全員を引き渡しました。
年が明けて、1/2、ようやく特別許可を得て、比叡・金剛がイスタンブールに入港。
トルコ国民は、感謝をこめて歓迎してくれたそうです。
5/10、すべての役割を終え、比叡・金剛は、無事に品川港に帰港しました。
☆ ONE POINT ☆
エルトゥールル号の海難事故に心を痛めた山田寅次郎は、演説会をおこなうなどして義捐金を集めました。その額は現在の3,000万円。外務省の助けを借りて自らトルコへ渡り、遺族へ届けました。トルコでは皇帝アブデュルハミト2世に拝謁。皇帝のすすめでトルコにとどまり、約20年間、民間大使として活躍しました。
消えていなかった友好の灯火
冒頭でもお伝えしましたが、1985年、イラン・イラク戦争のおり、トルコ政府は、窮地に立たされた日本人を救い出してくれました。
当時、日本の新聞にも掲載された、その詳細についてご紹介します
危険をおかして迎えに来てくれたトルコ政府
「今から48時間以降にイラン上空を飛ぶ飛行機は撃墜する」。
イラクのサダム・フセイン大統領がそう宣言したあと、世界各国は、すぐに自国民を救済するための飛行機をイランに送りました。
ところが、当時の日本の法律では自衛隊を派遣することができず、民間航空会社も、危険を理由に、救援機を飛ばさないと決定。
救援機が来ると信じて、テヘラン空港に集まった日本人は、絶望のふちにたたされました。
タイムリミットまで、残り数時間。
そんな中、日本人を救ったのは、トルコ政府の救援機でした。
空港には、日本人よりもはるかに多いトルコ人がいたにもかかわらず、日本人215名全員を乗せて、トルコの救援機はテヘラン空港を脱出したのです。
トルコ人の親日感情の原点
日本人が、トルコ政府の救援機でイランを脱出した一方で、空港に残されたトルコ人は、陸路を歩いて帰国することになりました。
そうなると分かっていても、そこにいたトルコ人はみんな、日本人に飛行機を譲ってくれた、ということですね。
助けられた日本人をはじめ、日本政府やマスコミも、なぜ、トルコ政府が日本を助けてくれたのか分かりませんでした。
のちに、ヤマン・パシュクット駐日大使は、その理由をこう語っています。
「特別機を派遣した理由のひとつがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事故です」。
トルコでは、エルトゥールル号の海難事故が、小学校の教科書に載っています。
トルコの人たちは、みんながそのできごとを知っていて、日本人を危機から救ってくれたんですね。
また、トルコのターキッシュ・エアラインズは、イラン・イラク戦争で日本人を救出した機体と同じ型の機体を「KUSHIMOTO号」と命名し、2015年から、就航を開始しました。
機体に「KUSHIMOTO」の文字が入ったその機体は、現在も世界中の空を飛び回っています。
トルコ記念館に残るエルトゥールル号海難事故の記録
救助の現場となった大島には、エルトゥールル号の海難事故の資料や、引き上げられた遺留品などが展示されている「トルコ記念館」があります。
2015年に、エルトゥールル号の海難事故を描いた映画『海難1890』が公開された際には、たくさんの人が訪れたそうですよ。
来館者の中には、なんと、実際にトルコ政府の救援機に乗ってイランを脱出した、という方も。
その方のお話では、機内でイランの上空を抜けたことを知らせるアナウンスがあったとき、みんなが飛び上がって喜んだため、機体が少し揺れたのだとか。
機内の日本人が喜び合う姿が、ありありと想像できますよね。
ただ、そこでもまだ、なぜトルコ政府が助けてくれたのかは、よく分からなかったそうです。
トルコ記念館の中からは、エルトゥールル号がぶつかった「船甲羅」と言われる岩礁を見ることができます。
のぞき窓から見た景色。
船甲羅、確かにまだありますね。
天気の良い日は、きれいな風景の一部でしかないのに、あの岩礁にぶつかって、昔から多くの船が沈んでいるそうですよ。
トルコ記念館の近くには、亡くなったエルトゥールル号の乗組員の慰霊碑があります。
トルコはイスラム教の信者が多く火葬ができないため、亡くなった乗組員を連れて帰ることができませんでした。
乗組員の遺体はここに埋葬されているので、お墓でもあるということですね。
ふるさとから遠く離れた地で寂しいかもしれませんが、大島は冬でも暖かく、晴れた日は海がきれいに見渡せます。
地元のお年寄りや小学生が慰霊碑の清掃をしてくれているので荒れることもなく、5年に1度は、串本町と駐日トルコ共和国大使館との共催で、慰霊祭もおこなわれています。
今は、この地、この海に眠るエルトゥールル号乗組員の魂が安らかであればいいな、と心から思いました。
まとめ
いかがでしたか?
今回は、
□トルコ軍艦エルトゥールル号の海難事故
□イラン・イラク戦争で日本人を救ってくれたトルコ政府
□大島にあるトルコ記念館と慰霊碑
などについてご紹介しました。
これらのエピソードの中でいちばん驚いたのは、イラン・イラク戦争で、なぜトルコ政府が助けてくれたのか、日本側が誰も分からなかった、ということです。
教科書にまで載せて、後世に伝えているトルコに対し、日本では、そのできごとを伝えてはいなかったんですね。
わたしも、トルコとの間にこんな歴史があるなんて、トルコ記念館に行くまで、まったく知りませんでした。
トルコ記念館には、ここでご紹介した以外にも、両国の友好の歴史が分かる資料が展示してあります。
展望台から見える景色もきれいなので、お天気のいい日を選んで、ぜひ一度、訪れてみてくださいね。
【データ】
◆トルコ記念館
《住所》
和歌山県東牟婁郡串本町樫野1025-25
《営業時間》
9:00-17:00
《定休日》
年中無休
《駐車場》
84台
《入館料》
一般 大人 500円
小~高校生 250円
団体 大人 400円
小~高校生 200円
【出典】
◆トルコ記念館 (とるこきねんかん)/一般社団法人南紀串本観光協会
◆串本と大島を結んだ巡行船と串本節/串本町
◆エルトゥールル号遭難事件から125年/ニッポンドットコム
◆【紀州を旅する】トルコと日本・友好の原点 串本/和歌山県
◆トルコ・エルトゥールル号遭難事故130年、和歌山・串本で式典 コロナ禍で規模縮小/産経新聞
◆山田寅次郎/NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
◆『海難1890』DVD 監督 田中光敏
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